【チクセントミハイ フロー体験-喜びの現象学】

これは幸福の一つの答えである。高度に発達した人間の脳を鑑みて、幸福の定義を定めるのは容易ではない。というよりほぼ不可能である。しかし、チクセントミハイは、幸福を目的や事物によって評価するのではなく、「その達成の過程に熱中できているか」という点で評価した点において、コペルニクス的転回を起こしたように思える。

私自身にとってもこの本の影響は相当多い。ポジティブ心理学をかじったことがあり、チクセントミハイの理論の概要は当然理解していたつもりだが、あらゆる点で非常に含蓄の多い本であった。

  • 心理的エネルギーの拡散:エントロピー:不安や目標に対しての営みを逸らすようなものが、自己のエネルギーを拡散させる
  • ・それに対して、フローは目標に対して努力する過程にある、心理的エネルギーを集中させる行為である。
  • これにより、人々はより心理的複雑性が増す=楽しい=人間として新しい視野が得られる ということになる。
  • フローを得るには、①ある程度の困難が伴い ②直接的なフィードバックがあり、 ③自己の意識が消滅していること (他にも条件はあるけどこの3つが大事なように思える)が必要である。自己目的的(例えば、金を得るのが目的ではない。いや、金を得るのが目的だとしても結果に拘泥せず、その瞬間瞬間を楽しむということだろう)でなければいけない。
  • 世界中のゲームは、①競争的なもの ②運試し的なもの ③現実感覚を惑わせるもの(スカイダイビングなど) ④代理の現実を創出するもの(ダンス・演劇など)に分かれるらしい
  • あくまで、外部の対象に対して喜びを感じなければいけない。(バートランドラッセルが述べるように。)自意識の過剰(=自己のegoへの執着)や、自己中心的パーソナリティであると、フローには極めて入りにくい
  • 性的経験や音楽など、身体を使ったフローも大いに奨励されるものである。例えば音楽なら、単に鑑賞する段階→抒情的・情緒的反応を示す段階→分析的段階 とどんどんそれに対するフローの度合いは深くなっていく
  • 作家がうつや情緒的障害をあらわすのは、そもそも彼らは心理的エントロピーの度合いが高く、書くことでしか自分たちのエントロピーを減少させる方法がなかったからであろう。
  • 外科医や、ただの畑仕事をしている人など、自己目的的に生きて、フローを毎日体験している人がいる。例えば、外科医などはフローを体験しやすい職種の一つである。
  • 人々は、「一人でいて、何もやることがないとき」に最悪の気分になる。
  • とはいっても、孤独な時に、自発的に何か集中出来る行為に没頭できなければフローは体験しにくい。
  • フローを体験するには、自ら進んで制約を受け入れる(他の可能性があるということをあきらめ、狭い制限された範囲の中に集中する)ことが必要である
  • 「人は、2週間後に絞首刑に処されることを知ると、驚くほど集中力が増す」という言葉にあるように、大きな挫折は時として大きくエントロピーを減少させ、新たな目標に向けてのフロー体験を生み出すことがある。(交通事故など)これは、成熟防衛という、挫折を複雑性の成長に変換する能力である。潜在的な脅威を楽しみと成長の機会に変えることが出来る人。
  • 生活の意味は、「意味を持つ」ということである。
  • 個人的自己→共同体的自己→超越的自己と、フローを抱く対象は変遷していく。
  • 内発的な動機に基づいた、真の投企(ある種の明け渡し?)
  • 我々は宇宙という大きなシステムの一つであり、共同的な自己の在り方が究極的な姿であるという観念が、将来的に科学技術で明らかにされるかもしれない

【ドリアングレイの肖像】オスカーワイルド

読んだ本くらいちゃんと更新しないと、ブログから大分遠ざかってしまうかもしれない。

 

ドリアングレイは映画化もされているし、当然大変な有名作品であるが、実は本自体を読んだことはなかった。オスカーワイルドという人物には以前から大変興味があり、その享楽的・審美的な生き方には非常に憧れがあった。私はどうゆうわけか非常に禁欲的な質なので、感性を開放して奔放に生きるということへの憧憬は根強くある。

 

この本のハイライトは、物語でもドリアンでもなく、ハリーの皮肉地味た、あまりに的確に的を射ている金言の数々であるように思える。

「永遠!恐ろしいことばだ。それを聞くとぞっとする。女が好んで用いたがることばだ。女ときたら、ロマンスというロマンスを長引かせようとして、結局は台無しにしてしまう。だいいち、それは無意味な言葉ではありませんか。きまぐれと一生持続する情熱との違いは、ただ、きまぐれのほうがすこしばかり長続きするということですよ」

「ねえ、きみ、生涯でいちどしか恋をしない人間こそ浅薄なのだ。こういう連中が忠実と呼び、まことと名付けているものを、ぼくは習慣の惰性とか集中力の欠如と呼ぶ。感情生活における忠実さというものは、知性における一貫性と同様に、失敗の告白に過ぎないのだ」

「女性が再婚するのは最初の夫がきらいだったからであり、男性が再婚するのは再遺書の妻が大好きだったからにほからならない」

「女性は欠点ゆえに男を愛するのです。男にも欠点が十分あれば、男のどんなことでも女は許す^男の知性さえ許してくれます。」

「結婚中の男はみな独り者のような生活をし、独り者は残らず結婚した男のような生活をしている」

「男はどの女とでも幸福になれるのだ。その女を愛していない限り」

「わたくしたち女性は耳で愛します、ちょうどあなたがた男性が眼で愛するように」

究極的に真理をついていて、しかもただの逆説だけでは出てこないような何ひねりもされたかのような至言の数々が生まれており、文学の存在意義をまざまざと見せつけられる。

 

全体として、道徳訓のようにも見えるが、実際は快楽主義に堕ちきれなかったドリアンを責めているようにも思える。

 

【頭がない男-ダグラスハーディングの人生と哲学】

ハーディングの本は、何冊か読んだことがある。彼は近代のノンデュアリティ(非二元)の中でも特に実践を重んじた人であり、いくつかの真理を悟るための実験を考案した人物である。この本は、彼の人生の伝記+思想 を絵本形式で分かりやすいビジュアルで説明しているものである。

ちなみに、いくつかの実験はyoutubeで見られるようになっている。

https://www.youtube.com/watch?v=98CindnEs58

この動画も含め結構分かりやすいといえば分かりやすいのだが、動画を見ても、本を見てもいまいちその真意が理解できなかった。彼の実験で最も有名なのは通称「指指し実験」で、自分に向かって指をさすと、実はその刺した先には何も対象が見えない=空が広がっている ということをきっかけに、「自己の空性」を体感するものである。私はこの実験にトライする度に「とはいってもこれはあくまで視界に限定された世界ではないか」「目が見えなかったらこの実験は効果がないから、本質ではないのではないか」ということをごちゃごちゃと思っていた。

今回、この「頭がない男」を読み、視覚的にとらえることで少し彼の言いたいことが分かるような気がした。ただ、まだ正直腑に落ちきっていない。唯一腑に落ちたのは、「どこまでが自分か」という問いに関する彼の答えである。例えば、外部に何か液体があったとして、その液体を体に取り込むと、それは我々の一部になるわけである。また、例えば木か何かが手に刺さって、手と木が一体になれば、もはや木もその一部である。「いや、木は別のものでしょ、自分の体ではないから」という反論もあり得るが、例えば髪の毛が体から抜け落ち、それが床に落ちたらそれはもう「自分」ではないはずである。そもそも我々の体自身が、食べ物・飲み物・空気などによって維持されているものであり、「外部」のものなしでは存在できないものである。そうすると、本当にどこまでが自分なのか という問いを思料するのは中々難しい。これはケンウィルバーが「無境界」で語っているようなことにも近いかもしれないが、「自己」と「他社」の境界は非常に曖昧である。ノンデュアリティの一般的な主題を、説得力のある言説で捉えられていて非常に感心した次第である。